2020.01.24
右斜め上から眺める協調学習(1)「助け合い」の落とし穴
みなさん、こんにちは。茨城大学の鈴木と申します。
私は、コンピューターによる協調学習の支援を
研究テーマとして活動をしてまいりました。
企業研究者であった時から数えれば30年ほどになります。
協調学習の普及は目覚ましいものがあります。
初期には、協調学習を導入することの意義を
現場の先生にわかっていただくために骨を折りましたし、
論文の冒頭で「なぜ協調学習が必要なのか」を
言葉を尽くして説明したのを覚えています。
現在、協調学習の重要性を疑う人はあまりいません。
このような素晴らしい現状を作り出すことに
尽力してくださった多くの実践者、
研究者の先生方には頭が下がる思いです。
一方で、協調学習が当然のこととして受け入れられることによって、
見えなくなっている側面があるのではないかとも感じます。
これらに目を向けることで、ICTによる協調学習支援の研究と実践を
さらに先に進めるヒントが得られるのではないかと考え、
この場をお借りして、いくつかのトピックについてお話させていただきます。
その一つとして、今回は「助け合い」について取り上げます。
学習活動において、困っている友人を助けてあげることが、
悪いことであろうはずがありません。実践者としての私も、
進んで他の学習者を助ける学生を見るとうれしくなります。
しかし、右斜め上から見ると、この「人を助ける」ということに
大きな落とし穴があるのです。
その理由を、これから段階を追ってお話します。
ここで文化人類学者のモースに登場願います。
モースは贈与論の中で、贈与は受けた側に
返礼義務(お返しをする義務)を生じさせると言っています。
そして、この返礼義務が果たせない時に、
その人は社会的な体面を失うことになるといいます。
贈与とは人に何かを提供することですので、
「助けてあげる」こともまた贈与の一種と言えそうです。
ということは、「助け」を受けた人には
返礼の義務が生じることになります。
ここで返礼とは普通は「助け返す」ことを意味します。
さて、人には適性、持っている資源の不均衡が必ずありますので、
「助け」を受けた時に必ず返礼できるわけではありません。
場合によっては、助けを受けることの方が
多くなってしまう人もいます。この時、モース的には
返礼義務違反が積み重なったということになり、
その人は人間関係の中で体面を失ってしまいます。
体面を失うのは気持ちいいものではありませんが、
これが学校で起こるとさらに辛いことになります。
なぜなら、人を助けることが(それが望ましい行為であるという理由で)、
教師の称賛と結びつくからです。
学校において教師に褒められることは、
「富」に匹敵する大きな意味を持ちます。
たくさん助ける子は、先生からより多くの称賛を受け、
クラス内の地位を向上させます。
助けられるだけの子は相対的に低い地位に押しやられてしまいます。
学校における成功がその後の人生を左右する現代社会においては、
彼らは体面以上のものを失う可能性があります。
「助け合い」は美しいものですが、場合によっては、
子どもを分断し、苦しめてしまう可能性があるということです。
必ずそうなるわけではありませんし、
本能的にこのような状況を避けることができる実践者も多いかと思います。
しかし、学校における助け合い活動には、
ここで述べたようなリスクが本質として伴っています。
では、どうしたらよいのでしょう。
なかなか難しいのですが、私は、
「人を助けること」だけでなく「人に助けてもらうこと」にも
同じだけの価値を与えることが必要だと思っています。
助け合い活動において、子どもたちに、
「人を助けたら、次は誰かに頼ってみなさい」と促すことで、
多くの子が「助ける側」にも「助けられる側」にも
なることのできる環境が実現するのではないでしょうか。
鈴木先生
茨城大学人文社会科学部教授。
教育⼯学、認知科学を専⾨とし、
コンピューターを活用した協調学習の研究を進めている。
電子情報通信学会教育工学研究専門委員会委員長。