2026.02.12
ハーバードの実験に学ぶ AI時代のケースメソッド教育
生成AIの普及により、教育現場でもAI活用への関心が急速に高まっている。
一方で、「AIが考えてしまうのではないか」「学生が考えなくなるのではないか」
「学びの質は保てるのか」など不安の声も聞かれる。
こうした問いに対し、示唆に富む取り組みが、
ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)とOpenAIによる共同実験(研究)である。
この研究は、
HBSの関連事業であるハーバード・ビジネス・インパクト・エデュケーション
(旧ハーバード・ビジネス・プレス、Harvard Business Press)が、
AIケース研究所(HBP AI Case Lab)として運営している。
この取り組みを理解するうえで欠かせないのが、
ハーバード・ビジネス・スクールが長年実践してきた
ケースメソッドという教育手法である。
ケースメソッドとは、実際に起きた、
あるいは起こり得る現実の事例を教材として提示し、
学習者が当事者(主に経営層)の立場に立って状況を分析し、
意思決定を行う学習方法である。
正解を教えるのではなく、「何が課題なのか」
「どのような選択肢があり得るのか」「なぜそう判断するのか」について、
経営者の視点から議論を深めていく点に特徴がある。
ケースメソッドで用いられる教材には厳密な定型があるわけではないが、
主に次の構成となる。
1)意思決定者が置かれた状況や背景を描写するナラティブ(ケース本文)、
2)売上推移や市場構造などを示す数値データや図表、
3)業界環境や競争状況を補足する参考資料や付録資料、
4)授業での議論を導くための設問(ディスカッション・クエスチョン)。
さらに、5)教員向けとして授業設計や議論の流れを整理した
ティーチングノートが用意される。
ケースメソッドは、これら複数の教材が一体となって成立している教育手法である。
HBP AI Case Labは、
このケースメソッドによる教育を前提としつつ、
その教材作成プロセスの一部にAIの力を取り入れる実験的な取り組みである。
具体的には、ケース教材で用いられるナラティブ等をAIの協力を得ながら作成し、
その精度や教育的有効性を教員が検証していく。
私自身も2025年3月からこの研究に参加し、実際のプロセスを体験してきた。
従来、ケースメソッドで用いられるナラティブ(ケース本文)の作成には、
関係者へのインタビュー、資料収集、事実確認、表現の調整など、
多大な時間と労力が必要とされてきた。
実際、一本のケースを完成させるまでに、
教員や編集者らが半年から一年近く関わることも決して珍しくない。
HBP AI Case Labでは、こうした負担の大きい工程の初期段階をAIが支援することで、
教材開発の在り方そのものを見直そうとしている。
そこで強く印象に残ったのは、AIが「考える主体」に
なることは一切想定されていないという点である。
AIは結論を出す存在ではなく、
教材作成を支援する補助的な存在として位置づけられていた。
最終的に、そのケースが議論を生み、
学習者の思考を深めるものになっているかを判断するのは、
常に人間である教員である。
この視点は、AI活用を個々の教員の裁量に委ねるのではなく、
校内研修や教育委員会レベルでの制度設計として、
授業設計力を高める仕組みをどう整えるかという課題にもつながっている。
AIを活用することで教材作成の効率は高まる。
しかしその分、教員には「どの問いを立て、どこで何を考えさせるか」という、
より高度な授業設計力が求められる。
HBP AI Case Labの取り組みは、AIが教員を代替する存在ではなく、
教員の専門性をむしろ際立たせる存在になり得ることを示している。
この実験は、AIと教員とが自立的に協働する関係の可能性を
示唆するものだと言えるだろう。
鎌田 伸尚
玉川大学教授。
専門は国際経営学およびマーケティング/ブランディング。ケースメソッドによる教育と、生成AIを活用した教材開発・授業設計の実践と研究に取り組む。2025年よりHBP AI Case Labに参加
近著に『半径50メートルのマーケティング―6000件をコンサルした男が語る経営の真実』。



